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――イメージをカタチに(中島工芸)―― イノベーションと精神文化。 何かが欠けてる。
同じ時間を、同じ場所で生きてるのに、 意識の中は、全く別の世界を生きてる感じだ。 文化が断絶している。 イノベーション(革新・新融合)が必要なのはわかる。 しかし、本当の問題はそれ以前のところにある。 テクニック(やり方)でも、システム(仕組み)でもなく、 それ以前の「自意識」の問題である。 今、切実に求められながら、最も抜け落ちているもの。 ――時代の精神と、それを育む文化の問題。 まさに、これがニーズだ。 @ テクニック。 「テクニック」で誤解しているのは、よく出会う。 豪華、地位、メーカー、規模、知名度、資格・・・等など。 要は、とにかく自分を大きく見せようとする。 これは最悪だ。 なにもないので、大きく見せることで錯覚する。 なにもないので、大きく見せる必要が生まれている。 消費者もまたそれを望んでいる。他に判断の基準がないからだ。 そうであるならば、消費者自身もまた「何か」を錯覚している。 では、なにかとは何か? ――「何か」とは、コンセプト(概念)だ。 あるいは存在理由といってもよいだろう。 これは、時代の文化と歴史から生成されたものだ。 しかし理由がなくなれば、どんなに立派に見えても、 実体は、魂の抜けた虚ろな迷信に過ぎない。 A システム。 テクニックに比べればシステムはまだわかりやすい。 コミュニケーションと行動の裏付けとなる、 機能としての組織体が現実にあるからだ。 このシステムで、社会の秩序と安定のルールが定められ、 人と人との関わり方から思考パターン、行動パターンまで支配されることになる。 システムの中に居続けると、いつのまにか自分が見えなくなる。 それがまた、当り前のように思えてくる。だから、もっと現実が見えなくなる。 そしてシステム(会社)から離れた途端、自分の居場所を見失う。 現実が彼を置き去りにして行く。 だから、システム(業態)は外からも眺めて見る必要がある。 そうして、それまでとは全く別の自分に遭遇することになる。 戸惑い、当惑し、茫然とたちすくむ。 未知との遭遇である。 自分は誰なのか? 現実が変り、時代が変化している。 平成不況を前後して、社会全体が、 価値観・思考・行動パターンまでが、 何か異質な、これまでとは別の動機でうごいている。 何かが違う。 いま必要なのは、そうした動機としての「精神文化」の問題だ。 テクニックでもシステムでもなく、それ以前の文化の問題である。 なにもかも揃っているのに、それらすべてに何かが欠けている。 一番肝心な「何か」が抜け落ちている。 気迫でもやる気でもなく、知識でもない。 それ以前のもっとも肝心な、本質的なものを欠いている。 「魂」を欠いている。 自意識、あるいは存在理由を喪失している。 アイデンティティー(自己同一性)を避けている。 B 共有意識。 すべての「システム」には、その歴史と理由がある。 システムは、その土壌となった文化・風土と切り離しては考えられない。 文化・風土には、種としての人間の記憶がやどっている。 システムは、それが表面に現れたカタチに過ぎない。 「遺伝子」という物理的な記憶ではなくて、 連綿と続く、歴史と文化の中で生きている自己の記憶である。 そうした「記憶」なくして、 どんなテクニックもシステムも有効に機能しない。 テクニックもシステムも着てる服に過ぎない。 問題となってるのは、その中身だ。 求められているのは、それぞれにとっての「存在理由」だ。 アイデンティティー(自己認識)を見失っている。 自分が生まれ育った土地や水、そよぐ風、かすむ光、空気・・・etc。 すべてがまぼろしのようなものです。 こうした、捉え所のない漠然とした現実から「記憶」をたどることになる。 そして、そのもとで祖先が生きてきた文化の記憶をまのあたりにする。 目の前のごく当り前の暮らしの中から。 自己の歴史と文化を知ることになる。 自己の発掘と再生を求めて。 index(索引)<concept(概念)<業務日誌< 三田市 中島工芸。 |