|
――イメージをカタチに(中島工芸)―― 日本語の「自分」という言葉の意味がわからない。 日本人だけの秘密の言葉ようにさえ思えてくる。 この日常会話の、 自分とその相手に対しても等しく「自分」と表現する、 この感覚はいったい何なのだろう? 自分は自分だ。それ以外の誰にもなれない。 自分は自分にしかないものだ。 自分と他人とは違う。 こうしたわかりきったことが勘違いされている。 自分の相手に向かって、 「自分はどうなんや」とか、「自分、どう思う?」などという。 いったい誰を指して「自分」などと言ってるのだろう? 理解に苦しむ。自分のことでないことだけは確かなのだから。 不思議に思うのは、ここで「自分」というのは、 当事者たる彼自身でも相手でもなくて、 だれか別の第三者を指して「自分」と言っているように聞こえることだ。 では、この第三者たる「自分」とは、いったい誰のことなのか? これは、自分と相手とを超越した絶対的な権威の存在を暗示して、 その権威が定める常識のルールに従う事を相手に求めたものだ。 日本人はこのことをうまく表現している。 「空気を読む」と。 これは日本の戒律であって、(日本語で表現すると<オキテ>) すべてに優先する絶対的信仰であり、原理だ。 これを破るのはヨソ者、仲間はずれ、村八分、外人(そとのひと)扱いだ。 これは非常に過酷な制裁だ。 なざなら、日本自体が巨大なムラ(村)なのであって、 このムラ社会から締め出されることを意味するからだ。 つまり、仕事にありつけない。生活不可能な状態に陥れられる。 という訳で、自分の考えなど持ってはならない。 個人の自立など、初めからあり得ない。 というよりも、こうした状態があまりに当り前過ぎて、 これに疑問を感じたり、違和感を感じないように出来ている。 もともとそうした発想自体が、意識の中から消し去られている。 学校教育、企業組織、社会システムなどもそうした秩序を前提に成り立っており、 そうしたモラルとルールの下に運営されている。 ということは、このルールさえ守っていれば、 何をやってもよい、許されるものと勘違いしている。 なぜなら、そもそも自分の考え、自分の意思というのが無いのだから。責任も感じない。 すべてに優先するのは周りの「空気」であって、 所属する集団のその場その時の雰囲気である。 従って、集団として「群れる」ということが不可欠で、 また、排除される「仲間はずれ」を何よりも恐れる。 日本語でいう「自分」という言葉は、 必ずしも、自分自身という個人を指す言葉ではなくて、 自分と相手とを含めた広い意味での共同体を意味したもので、 そのモラルとルールへの、共通の信仰を前提としたもののように思える。 そうだとすると、存在するのは「自分たちだけ」となる。 個人としての自己も、他人としての相手も存在しない不思議な世界だ。 index(索引)<concept(概念)<業務日誌< 三田市 中島工芸 |