――イメージをカタチに(中島工芸)――
index(索引)concept(概念)業務日誌2006年7月18日

  
 < 自分という概念。>




日本語の「自分」という言葉の意味がわからない。
日本人だけの秘密の言葉ようにさえ思えてくる。
この日常会話の、
自分とその相手に対しても等しく「自分」と表現する、
この感覚はいったい何なのだろう?

自分は自分だ。それ以外の誰にもなれない。
自分は自分にしかないものだ。
自分と他人とは違う。
こうしたわかりきったことが勘違いされている。

自分の相手に向かって、
「自分はどうなんや」とか、「自分、どう思う?」などという。
いったい誰を指して「自分」などと言ってるのだろう?
理解に苦しむ。自分のことでないことだけは確かなのだから。

不思議に思うのは、ここで「自分」というのは、
当事者たる彼自身でも相手でもなくて、
だれか別の第三者を指して「自分」と言っているように聞こえることだ。
では、この第三者たる「自分」とは、いったい誰のことなのか?
これは、自分と相手とを超越した絶対的な権威の存在を暗示して、
その権威が定める常識のルールに従う事を相手に求めたものだ。
日本人はこのことをうまく表現している。
「空気を読む」と。

これは日本の戒律であって、
(日本語で表現すると<オキテ>)
すべてに優先する絶対的信仰であり、原理だ。
これを破るのはヨソ者、仲間はずれ、村八分、外人(そとのひと)扱いだ。
これは非常に過酷な制裁だ。
なざなら、日本自体が巨大なムラ(村)なのであって、
このムラ社会から締め出されることを意味するからだ。

つまり、仕事にありつけない。生活不可能な状態に陥れられる。
という訳で、自分の考えなど持ってはならない。
個人の自立など、初めからあり得ない。
というよりも、こうした状態があまりに当り前過ぎて、
これに疑問を感じたり、違和感を感じないように出来ている。
もともとそうした発想自体が、意識の中から消し去られている。

学校教育、企業組織、社会システムなどもそうした秩序を前提に成り立っており、
そうしたモラルとルールの下に運営されている。
ということは、このルールさえ守っていれば、
何をやってもよい、許されるものと勘違いしている。
なぜなら、そもそも自分の考え、自分の意思というのが無いのだから。責任も感じない。

すべてに優先するのは周りの「空気」であって、
所属する集団のその場その時の雰囲気である。
従って、集団として「群れる」ということが不可欠で、
また、排除される「仲間はずれ」を何よりも恐れる。

日本語でいう「自分」という言葉は、
必ずしも、自分自身という個人を指す言葉ではなくて、
自分と相手とを含めた広い意味での共同体を意味したもので、
そのモラルとルールへの、共通の信仰を前提としたもののように思える。
そうだとすると、存在するのは「自分たちだけ」となる。
個人としての自己も、他人としての相手も存在しない不思議な世界だ。





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